翌日、わたしは約束通り放課後、化学部の部室にいくつもりだった。
でも帰りがけに掲示板を見ると、図書館からわたしへの呼び出しが出ていて、わたしが以前から頼んでいた小説がようやく配架になったというお知らせだった。
わたしは、途中で図書館に寄り、本を借りだしていくことにした。優子様との約束の時間にはすこし間がある。
心待ちしていた外国の作家の小説で、配架まで長い期間待たされていたので、わたしは、受け取ると、ほんの少しのつもりで、カウンター近くの椅子に座り、ページをめくりはじめた。
そして、いつの間にか夢中で読み始めてしまった。
どれくらい読んでいたか・・・。わたしの向かい側の生徒が音をたてて立ち上がったのでわたしは、はっと我に返った。
<あ・・しまった!>
読書に夢中で優子様との待ち合わせの時間を過ぎているのに気がつかなかった。
<いけない!もう約束を30分もすぎてるじゃない!>
あわてて立ち上がった時。なにかドカン!というすごい音が図書館の外で聞こえた。
ズシンというおなかに響くような衝撃波を伴う音で、図書館のガラス窓がびりびりとなった。
<地震かな?>
と思ったけど、振動はそれ一度きりだ。
そのかわり遠くでなにか叫び声が聞こえる。
図書館の中の生徒たちは皆顔を見合わせた。
<なんだろう?>
音も気になるけど、優子様との待ち合わせの方が優先だ。わたしは急いで図書館の外へ出た。
歩いていくと、大勢の生徒が小走りに向こうに駆けていくのが見える。そしてその先に遠く、校舎の裏に先生たちや守衛さんたちが駆けだしていくのが見える。
わたしは、いやな予感がして急ぎ足で歩き出した。
その時、向こうからやってくる上級生と、そのお友達らしいこちらから歩いてくる上級生の話が耳に入ってきた。
「なに?いまのすごい音?」
「校舎裏の化学部の部室で爆発ですって!今すごい勢いで燃えているわ」
「え?うちの学校に化学部なんてあったの?」
わたしは、全速力で走り出した。
スカートが乱れてはね上がり、タイが背中の方までねじ曲がる。
みんなが、驚いて振り返るけどかまいやしない。
リリアンのたしなみなんか知ったことではない。
息を切らして見慣れた校舎の角を曲がったわたしは、そこで立ちすくんだ。
化学部の部室が!
優子様がいるはずの部室が!
紅蓮の炎に包まれている。割れた窓からどす黒い煙がもくもくと噴き出ている。
もう遠巻きに大勢の生徒が集まり、部室の回りに消化器をもった先生や守衛さんたちが集まって懸命に火を消そうとしているけど、先生たちの持ってきた小さな消化器では、もう消すことは無理だ。そして・・・あの炎の中にわたしを待っていた優子様がいるはずだ!
「優子様!・・優子さま!!!!」
わたしは、絶叫して炎に包まれた部室に向かって突進した。
優子様を助けなくっちゃ!
「だめよ!」
誰かがわたしを後ろから抱き留めた。
「は・・はなして!優子様が!・・優子様が中に!!」
「もう・・誰もあそこには入れないわ!落ち着きなさい!」
わたしを抱き留めたのは、だれあろう。ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン=福沢祐巳様だったということは、後からその場で見ていたクラスメイトから聞いたことだ。
つまりその時わたしは、あこがれの祐巳様の腕の中にしっかりと抱きしめられていたわけだ。
でもそんなことは、ずっと後から聞いた話。
その時のわたしには、後ろからわたしを抱き留めた手はただの邪魔者でしかなかった。
「はなして!・・優子様がまだあの中に!助けないと!」
「もう・・手遅れよ・・」
背後の声(つまり祐巳様の声だったわけだけど)が、ずしりと心に響いた。
「そんな・・・そ・んな・・・」
見る間にもう炎に包まれた部室の屋根が崩れ落ちようとしている。裏の温室も、優子様が丹誠込めたきれいな花々も炎の中だ。
ようやく守衛さんたちが、ホースを引いてきて放水をはじめた。
遠くから消防車のサイレンが近づいてくる。
たしかに・・もう・・手遅れだ・・・
わたしは、その場に崩れ落ちた。
涙があふれ出てくる。
「う・・ああ・あ・・ゆ・・優子様・・・ああ・」
わたしは、制服が泥だらけになるのもかまわず地面にひれ伏して大声で泣き出した。
生まれてはじめて目の前が真っ暗になって立っていられないほどの悲しみが突き上げてきた。わたしが、ガバッと地面にひれ伏して本格的に泣き出そうとしたその時だ・・
「利佳子ちゃん・・・」
わたしは、とうとう気が狂ってしまったらしい。
後ろで優子様の声がする。
なんか、間が抜けたようなとまどったような遠慮がちの声が・・。
「お悲しみを台無しにして悪いけど・・わたし生きているよ・・」
・・・このおっさんみたいなぼそぼそ声は・・。
「え?」
わたしが、振り返ると、白衣を着た優子様が、とまどったような照れたような表情で立っていた。最初に会った時と同じボーとした表情で。ポケットに両手を突っ込んで。
「優子様!」
わたしは、跳ね起きてどろだらけのまま優子様に抱きついた。
「ああ!利佳子ちゃん白衣が汚れる!」
優子様が叫んだけど、かまいやしない。わたしは、きつく優子様を抱きしめた。
その後、優子様は、かなり長い時間先生達や消防署の人から事情聴取された。
でも、消防署の人が調べてすぐに、火元は古い配電盤からの漏電だとわかった。
優子様の責任ではないということがわかって、よくやく解放されたのは、もう日がとっぷりと暮れた時間だった。
教員室から出てきた優子様は、外でずっと待っていたわたしを見て、驚いたようだったけど、わたしたちは黙って歩き出した。
暗い並木道を並んで歩きながら突然優子様は、しやべりはじめた。
「あの・・コンセントに長期間電源プラグを差込んだままにしているとね、コンセントとプラグとの隙間に徐々にほこりが溜まり、このほこりが湿気を帯びることによってプラグ両極間で、火花放電が発生するわけ・・これをトラッキング現象というんだけど・・」
ひとしきり、優子様が、わたしに過電流と漏電による発火の原理についての化学的講義をしている間に・・。わたしたちは、また燃え尽きた化学部の部室の後に歩いてきた。
「ともかくご無事でよかった・・・」
ようやく講義につかれて優子様が息をついたので、実は何も聞いていないでこの瞬間だけを待っていたわたしは、優子様の繊細な細い手を取った。
わたしが大好きな優子様の手・・・。もしかしたら二度と握れなかったかもしれない手を、薬品のシミだらけだけど繊細で名前の通り優しい手をわたしは撫でた。
「利佳子ちゃん・・・ありがとう」
優子様は、うつむいてもぐもぐとつぶやいた。
「え?」
「ああ・・え・・ええと・・つまりね。さっきわたしが珍しく部室にいなかったのは、実は利佳子ちゃんを捜していたからなんだ・・・・もしあの時わたしが部室にいたらどうなっていたか・・」
その通りだ。優子様は、大切な部室と温室を守ろうとして最後まで逃げようとはなさらなかったはずだ。
そうなっていたら・・と思うとぞっとする。
それはそうと気になることがある。優子様が実験をやめてまでわたしを捜していたのはなぜだろう?
「あの・・わたしになんのご用だったんでしょうか?」
「う・・うん・・あのね・・・」
優子様は、黙って汚れた白衣に手を突っ込むとしばらくごそごそしてようやくロザリオを引っ張り出した。
わたしは、息を詰めてロザリオを見つめた。
白衣から出てきたロザリオは、聴診器みたいに見えた。
「あのね・・利佳子ちゃん・・ええと・・あの・・こ・・こういう時なんていうんだろう・・?」
「・・・わたしのプティスールにおなりなさい・・」
「あ・ああ・なるほど・・わ・・わたしの・・プ・・プティスールに・・なりなさい・ていうか・あの・・・なって・・くれるわけ・・ないよね?」
返事の代わりに、わたしは、ほほえんで優子様の前に進み出て頭をさげた。
「お受けいたします・・お姉さま」
「あ・・あそう・・あ・・ありがとう」
あれほど器用なはずの優子様が震える手で不器用にわたしの首にロザリオをかけようとする。頭にひっかかり、耳にひっかかり・・散々時間がかかって・・ようやくロザリオはわたしの首にかかった。
こうしてわたしは、リリアン女学園の化学部部長でただひとりの部員、飯島優子様の妹(スール)になった。
夢見ていたのとは全然違っていた。
マリア様の前どころか、焼け落ちてまだブスブスくすぶって臭い煙を上げている校舎裏の化学部の部室の前で、紅薔薇のつぼみどころか白衣姿で薬品の匂いのする指が薬品のシミだらけの人から、わたしは、ロザリオを受けた。
これまでのわたしの人生で最高の瞬間だった。 終
でも帰りがけに掲示板を見ると、図書館からわたしへの呼び出しが出ていて、わたしが以前から頼んでいた小説がようやく配架になったというお知らせだった。
わたしは、途中で図書館に寄り、本を借りだしていくことにした。優子様との約束の時間にはすこし間がある。
心待ちしていた外国の作家の小説で、配架まで長い期間待たされていたので、わたしは、受け取ると、ほんの少しのつもりで、カウンター近くの椅子に座り、ページをめくりはじめた。
そして、いつの間にか夢中で読み始めてしまった。
どれくらい読んでいたか・・・。わたしの向かい側の生徒が音をたてて立ち上がったのでわたしは、はっと我に返った。
<あ・・しまった!>
読書に夢中で優子様との待ち合わせの時間を過ぎているのに気がつかなかった。
<いけない!もう約束を30分もすぎてるじゃない!>
あわてて立ち上がった時。なにかドカン!というすごい音が図書館の外で聞こえた。
ズシンというおなかに響くような衝撃波を伴う音で、図書館のガラス窓がびりびりとなった。
<地震かな?>
と思ったけど、振動はそれ一度きりだ。
そのかわり遠くでなにか叫び声が聞こえる。
図書館の中の生徒たちは皆顔を見合わせた。
<なんだろう?>
音も気になるけど、優子様との待ち合わせの方が優先だ。わたしは急いで図書館の外へ出た。
歩いていくと、大勢の生徒が小走りに向こうに駆けていくのが見える。そしてその先に遠く、校舎の裏に先生たちや守衛さんたちが駆けだしていくのが見える。
わたしは、いやな予感がして急ぎ足で歩き出した。
その時、向こうからやってくる上級生と、そのお友達らしいこちらから歩いてくる上級生の話が耳に入ってきた。
「なに?いまのすごい音?」
「校舎裏の化学部の部室で爆発ですって!今すごい勢いで燃えているわ」
「え?うちの学校に化学部なんてあったの?」
わたしは、全速力で走り出した。
スカートが乱れてはね上がり、タイが背中の方までねじ曲がる。
みんなが、驚いて振り返るけどかまいやしない。
リリアンのたしなみなんか知ったことではない。
息を切らして見慣れた校舎の角を曲がったわたしは、そこで立ちすくんだ。
化学部の部室が!
優子様がいるはずの部室が!
紅蓮の炎に包まれている。割れた窓からどす黒い煙がもくもくと噴き出ている。
もう遠巻きに大勢の生徒が集まり、部室の回りに消化器をもった先生や守衛さんたちが集まって懸命に火を消そうとしているけど、先生たちの持ってきた小さな消化器では、もう消すことは無理だ。そして・・・あの炎の中にわたしを待っていた優子様がいるはずだ!
「優子様!・・優子さま!!!!」
わたしは、絶叫して炎に包まれた部室に向かって突進した。
優子様を助けなくっちゃ!
「だめよ!」
誰かがわたしを後ろから抱き留めた。
「は・・はなして!優子様が!・・優子様が中に!!」
「もう・・誰もあそこには入れないわ!落ち着きなさい!」
わたしを抱き留めたのは、だれあろう。ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン=福沢祐巳様だったということは、後からその場で見ていたクラスメイトから聞いたことだ。
つまりその時わたしは、あこがれの祐巳様の腕の中にしっかりと抱きしめられていたわけだ。
でもそんなことは、ずっと後から聞いた話。
その時のわたしには、後ろからわたしを抱き留めた手はただの邪魔者でしかなかった。
「はなして!・・優子様がまだあの中に!助けないと!」
「もう・・手遅れよ・・」
背後の声(つまり祐巳様の声だったわけだけど)が、ずしりと心に響いた。
「そんな・・・そ・んな・・・」
見る間にもう炎に包まれた部室の屋根が崩れ落ちようとしている。裏の温室も、優子様が丹誠込めたきれいな花々も炎の中だ。
ようやく守衛さんたちが、ホースを引いてきて放水をはじめた。
遠くから消防車のサイレンが近づいてくる。
たしかに・・もう・・手遅れだ・・・
わたしは、その場に崩れ落ちた。
涙があふれ出てくる。
「う・・ああ・あ・・ゆ・・優子様・・・ああ・」
わたしは、制服が泥だらけになるのもかまわず地面にひれ伏して大声で泣き出した。
生まれてはじめて目の前が真っ暗になって立っていられないほどの悲しみが突き上げてきた。わたしが、ガバッと地面にひれ伏して本格的に泣き出そうとしたその時だ・・
「利佳子ちゃん・・・」
わたしは、とうとう気が狂ってしまったらしい。
後ろで優子様の声がする。
なんか、間が抜けたようなとまどったような遠慮がちの声が・・。
「お悲しみを台無しにして悪いけど・・わたし生きているよ・・」
・・・このおっさんみたいなぼそぼそ声は・・。
「え?」
わたしが、振り返ると、白衣を着た優子様が、とまどったような照れたような表情で立っていた。最初に会った時と同じボーとした表情で。ポケットに両手を突っ込んで。
「優子様!」
わたしは、跳ね起きてどろだらけのまま優子様に抱きついた。
「ああ!利佳子ちゃん白衣が汚れる!」
優子様が叫んだけど、かまいやしない。わたしは、きつく優子様を抱きしめた。
その後、優子様は、かなり長い時間先生達や消防署の人から事情聴取された。
でも、消防署の人が調べてすぐに、火元は古い配電盤からの漏電だとわかった。
優子様の責任ではないということがわかって、よくやく解放されたのは、もう日がとっぷりと暮れた時間だった。
教員室から出てきた優子様は、外でずっと待っていたわたしを見て、驚いたようだったけど、わたしたちは黙って歩き出した。
暗い並木道を並んで歩きながら突然優子様は、しやべりはじめた。
「あの・・コンセントに長期間電源プラグを差込んだままにしているとね、コンセントとプラグとの隙間に徐々にほこりが溜まり、このほこりが湿気を帯びることによってプラグ両極間で、火花放電が発生するわけ・・これをトラッキング現象というんだけど・・」
ひとしきり、優子様が、わたしに過電流と漏電による発火の原理についての化学的講義をしている間に・・。わたしたちは、また燃え尽きた化学部の部室の後に歩いてきた。
「ともかくご無事でよかった・・・」
ようやく講義につかれて優子様が息をついたので、実は何も聞いていないでこの瞬間だけを待っていたわたしは、優子様の繊細な細い手を取った。
わたしが大好きな優子様の手・・・。もしかしたら二度と握れなかったかもしれない手を、薬品のシミだらけだけど繊細で名前の通り優しい手をわたしは撫でた。
「利佳子ちゃん・・・ありがとう」
優子様は、うつむいてもぐもぐとつぶやいた。
「え?」
「ああ・・え・・ええと・・つまりね。さっきわたしが珍しく部室にいなかったのは、実は利佳子ちゃんを捜していたからなんだ・・・・もしあの時わたしが部室にいたらどうなっていたか・・」
その通りだ。優子様は、大切な部室と温室を守ろうとして最後まで逃げようとはなさらなかったはずだ。
そうなっていたら・・と思うとぞっとする。
それはそうと気になることがある。優子様が実験をやめてまでわたしを捜していたのはなぜだろう?
「あの・・わたしになんのご用だったんでしょうか?」
「う・・うん・・あのね・・・」
優子様は、黙って汚れた白衣に手を突っ込むとしばらくごそごそしてようやくロザリオを引っ張り出した。
わたしは、息を詰めてロザリオを見つめた。
白衣から出てきたロザリオは、聴診器みたいに見えた。
「あのね・・利佳子ちゃん・・ええと・・あの・・こ・・こういう時なんていうんだろう・・?」
「・・・わたしのプティスールにおなりなさい・・」
「あ・ああ・なるほど・・わ・・わたしの・・プ・・プティスールに・・なりなさい・ていうか・あの・・・なって・・くれるわけ・・ないよね?」
返事の代わりに、わたしは、ほほえんで優子様の前に進み出て頭をさげた。
「お受けいたします・・お姉さま」
「あ・・あそう・・あ・・ありがとう」
あれほど器用なはずの優子様が震える手で不器用にわたしの首にロザリオをかけようとする。頭にひっかかり、耳にひっかかり・・散々時間がかかって・・ようやくロザリオはわたしの首にかかった。
こうしてわたしは、リリアン女学園の化学部部長でただひとりの部員、飯島優子様の妹(スール)になった。
夢見ていたのとは全然違っていた。
マリア様の前どころか、焼け落ちてまだブスブスくすぶって臭い煙を上げている校舎裏の化学部の部室の前で、紅薔薇のつぼみどころか白衣姿で薬品の匂いのする指が薬品のシミだらけの人から、わたしは、ロザリオを受けた。
これまでのわたしの人生で最高の瞬間だった。 終
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by kiryu-mika
| 2001-12-28 12:41
| マリア様がみてる2次小説